オーストラリアの作家 エミリー・ロッダの小説「彼の名はウォルター」の伏線を、その背景もふまえてより深く読み解きます。ネタバレ注意!
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「彼の名はウォルター」の背景
「彼の名はウォルター」がミステリーなのか、ホラーなのか、ファンタジーなのかは、おそらく読んだ人によって意見が異なるでしょう。しかしあえてジャンルをひとつにしぼるなら、YAミステリーではないかと思いました。「彼の名はウォルター」の謎は、結末にかけて丁寧にタネ明かしされているものの、歴史教師のフィオーリ先生のように、トリックに関連する知識があれば、タネ明かしがなくても謎を解くことができるかもしれないからです。
※以下ネタバレ※
作者エミリー・ロッダは、夫・ライアンの生い立ちから、ウォルターの物語の着想を得たと語っています。ライアンは、戦時中にイギリスの孤児院で育ちました。ライアンがいた孤児院の環境は、体罰もふくむような、子どもにとって大変つらいもので、たびたび周囲にそれを話して聞かせるそう。ライアンのこの経験は、老ジンジャーや、ウォルターの身の上と重なる部分があるのかもしれませんし、ストーリーにも影響をおよぼしていることが見て取れます。
作中作『彼の名はウォルター』の舞台であり、ウォルターやスパロウが生きていたのは、1900年前後から1946年ごろのオーストラリアです。当時のオーストラリアは、カナダ、ニュージーランドなどとならぶ大英帝国の自治領でした。「彼の名はウォルター」の伏線で、謎を解くカギはオーストラリアの歴史、特に自治領時代末期の歴史だと言えるでしょう。ヒントは本文にもちりばめられていましたが、オーストラリアの人びとの目線でなければ、少しピンと来にくいものだったと思います。ここでは、オーストラリアの歴史的な背景をもとにしながら、「彼の名はウォルター」の謎をもう一度読み解いていきます。
アンザック・デー(ANZAC DAY)
生徒たちもだれも気づかなかったと思ったコリンは、ウォルターが戦争に行った時のスパロウの物語をまったく新たな見方で考え始めた。アンザック・デーに、テレビで、おじいさんたちがアジアでの戦闘や、シンガポールの陥落や、捕虜収容所や、飢餓状態での帰国といった話をしているのを聞いたことがある。
エミリー・ロッダ著、さくまゆみこ訳、「彼の名はウォルター」、あすなろ書房、2022年 p.330
主人公のコリンが、スパロウの物語に隠された真実に思いをめぐらせる手がかりのひとつである、アンザック・デー。日本ではあまり聞きなじみがありませんが、毎年4月25日のアンザック・デー(ANZAC DAY)は、建国記念日にあたるオーストラリア・デー(1/26)とならび、オーストラリアでは国民的な記念日です。
アンザック(ANZAC)とは、Australia and New Zealand Army Corps―オーストラリア・ニュージーランド連合軍の略。第一次世界大戦中の1915年4月25日、オーストラリア・ニュージーランドの連合軍アンザック軍がトルコ・ガリポリ半島に上陸した、『ガリポリの戦い』が起こりました。
8か月におよんだガリポリの戦いで、アンザック軍は甚大な被害をこうむり、8700名以上の兵士が命を落としました。戦後のオーストラリアとニュージーランドでは、ガリポリの戦いによる戦死者を追悼し、ガリポリで戦った兵士たちの勇気と愛国心をたたえる記念日として、4月25日のアンザック・デーが定められました。
このように、もともとは第一次大戦でのガリポリの戦いを記念するアンザック・デーでしたが、ふたたび多くの人々が徴兵された第二次大戦からは、国家のために戦ったすべてのオーストラリア兵をたたえる記念日とみなされるようになり、現在も国を挙げて毎年祝われています。
アンザック・デーには、オーストラリア中の都市でパレードや式典がもよおされます。2015年には、アンザックの戦いからちょうど100周年を迎え、オーストラリア国内では歴史的な記念として大いに祝われました。
世界恐慌、二度の大戦を経て、植民地から独立国家へ
第一次大戦のさなかには、世界中でスペイン風邪(インフルエンザ)が流行します。オーストラリアでは、1918年の7月ごろに猛威をふるいました。ウォルターが生まれたのは、このスペイン風邪流行の少し前でしたが、幸か不幸か、彼は感染することなく生きのびました(「彼の名はウォルター」p.24,p.345)。
さらに1930年前後には、世界恐慌の影響で不況におちいり、都市には失業したこじき―亡霊たち―があふれかえります(同上p.31,p.345)。その後1939年には、イギリスが第二次大戦に参戦したことから、植民地のオーストラリアでもウォルターのような義勇兵がつのられ、東南アジアの島々などに送りこまれました。
老ジンジャー、ウォルターの父やマグダの息子エイダンたち、そしてウォルターを戦争に招集した王様は、イギリス国王(史実ではジョージ5世)を指すのでしょう。オーストラリアでは、1901年に6つの植民地が併合して連邦政府が誕生し、連邦議会で首相が選ばれるようになりました。しかし連邦政府が作られたとはいっても、政治・経済・外交などの面でイギリスとは切っても切れない関係にありました。さらにオーストラリアの住民は、もともとイギリスで生まれた移民が中心でしたから、宗主国イギリスの方針に従うのは自然な流れでした。
ところがオーストラリアは、イギリスと足並みをそろえてふたつの大戦に参加したことで、多くの犠牲者が出た『ガリポリの戦い』をはじめ、さまざまな痛手を受けます。オーストラリア防衛のため連合国軍がシンガポールに作った要塞は、完成後すぐ旧日本軍の攻撃により陥落し、恐れられていた北からの侵略―旧日本軍による1942年のオーストラリア本土北部空爆―も起こります。
その結果、本国イギリスから遠くはなれたオーストラリアでは、戦争を通じて、安全保障や防衛の方針でイギリスとは大きな溝が生まれてしまいました。第二次大戦後、オーストラリアはその反省をふまえ、同じく植民地だったカナダやニュージーランドなどとともに、自立の道を歩み始めます。
今ではれっきとした独立国家のオーストラリアですが、国際的・法的にも独立国家とみなされたのは、第一次・第二次大戦を経た1947年ごろ以降のことです。ウォルターの物語は、オーストラリアが名実とも近代国家になる直前、現代とは違う価値観や偏見があった時代の出来事。そこから現在までにおける、社会の変貌ぶりは、ファンタジーとも思えるほどに大きなものです。
変わりゆく未来―平和で、多様で、自由な世の中
作中作『彼の名はウォルター』の登場人物では、唯一存命の老ジンジャーも100歳を超える高齢となり、王様がいた戦前・戦中のオーストラリアも遠い過去になりました。
第二次大戦後のオーストラリアでは、世界中から広く移民を受け入れる政策がとられ(白豪主義からの転換)、あらゆる民族や文化が共生する多文化社会が目指されてきました。これは、現代のオーストラリアで暮らす人々のありのまま、そして理想的な姿として、多様なルーツの人物がいりまじる本作のキャラクター構成からも読みとれます。
ウォルターやスパロウは、時代や周りの人々に翻弄され、生きて結ばれることはありませんでした。またウォルター自身は戦争から無事に帰還したものの、彼と同じように戦場におもむき、若くして命を落とした青年たちもおおぜいいます。
けれど、時代は大きく変わりました。社会にはまだいろいろな問題がありますが、ウォルターたちの時代と比べると、より多くの人の権利が認められ、より自由に生きられる世の中になっています。戦火はいまだ世界中でたえませんが、オーストラリアや日本のように、平和な時代がつづいている国もあります。ウォルターの物語をどう読むかが読者に任されているように、これからどういう世界が作られていくかは、コリンたち4人のような未来の大人たちの手にかかっているのでしょう。
「彼の名はウォルター」生き物と人
最後に、「彼の名はウォルター」の作中に登場する、めずらしい生き物や人もご紹介します。まずはオーストラリア固有の動物たちから。
作中作『彼の名はウォルター』の扉絵に描かれ、コリンもその名を例に出したポッサム(同上p.149,p.176)は、オーストラリアやニューギニア島に生息し、樹上で暮らす小~中型の有袋類。
コリンがテレビで話を聞いた鳥 キバタンは(同上p.236)、白い体に黄色いとさかを持つ、オーストラリア固有のオウム。人なつこく社交的で知能も高いため、人気のペットです。日本でも、各地の動物園で飼育されています。
そして、フィオーリ先生が歴史家を目指すきっかけになった、レズリー・ポールズ・ハートリーは、イギリスの小説家。わずかではあるものの、日本語訳されている作品もあります。⇒Amazon ハートリーの作品はおもに怪奇小説ということですので、『彼の名はウォルター』に影響を与えているのかもしれません。
「彼の名はウォルター」年表
「彼の名はウォルター」内で起こった出来事と史実を照らし合わせてみました。
年 | 「彼の名はウォルター」の出来事 | 史実 |
1895 | エイダンとアビー誕生 | |
1914 | エイダン出征、戦死 | 第一次大戦が勃発 |
アビーが家出 | ||
老ジンジャー誕生?(1914~1918のあいだ) | ||
1915.4 | ガリポリの戦い | |
1918 | スパロウ誕生 | |
ウォルターの両親死去 | ||
1918.5ごろ | ウォルター誕生 | |
1918.7ごろ | スペインかぜがオーストラリアで流行 | |
1925 | アビー死去 | |
1929 | 世界恐慌(~1934ごろ) | |
1932 | ウォルターがハチの巣を出て独立 | |
1934 | ウォルターがウサギ穴から脱走 | |
1937 | マグダ死去 | |
1939.9 | 第二次大戦に英帝国が参戦(※南半球オーストラリアでは春) | |
ウォルター出征 | ||
1942.2 | ダーウィン空襲 | |
1946 | ウォルター帰国、死去 | |
1947 | スパロウ死去 | |
2014~2018? | コリンたちが「彼の名はウォルター」を見つける | アンザック100周年 |
参考文献
- 竹田いさみ「物語 オーストラリアの歴史 多文化ミドルパワーの実験」中公新書、2000年
- 日本児童文芸家協会『児童文芸』2010年2・3月号(p.10~p.17)
- SCIS「Emily Rodda on treasured stories」